Stand bye me久しぶりに見た

ひさしぶりに見た 不朽の名作だ 社会の荒海へ漕ぎ出す前のいっときのモラトリアム期間 忘れえぬ時間 映画では彼らは小学生 我は大学生だった 頃は70年安保 万博の前年 全共闘か゛暴れてムチャクチャのころだった 体育会系 のクラブ あまりに醜悪な上下関係と品のなさにへきえきして半年で退部したあと各ゼミの代表者でつくるゼミナール協議会というところで遊んでいた ここが秘密基地 イインチョのオオタケンゴは家業の本屋を手伝うために与えられたホンタ゛N360に乗っていた この武器は我らを九州から北海道、近隣の女子大まで遠征可能にした まことに当時の最高傑作 北海道遠征の際新潟から青森まで夜の国道7号線 まえの車を全部抜いて爆走した 360CCエンジンで 信じられるかって 高速ローロの出来る前の一般道で よくぞご無事で生還できたものだ

秀才のタムラショウイチは講義に出ない怠け者からよくノート貸を頼まれてた 対価は大学前の喫茶店のコーヒー ”ホットケーキも付けてや”  コーヒー80円 生協喫茶部40円 ショートピース40円の時代 あまりの多さにタムラは試験解答のコピー多発に恐れをなし、自分専用にノート書き直した このマメな秀才は渉外部長、女子大とよく合ハイをセットして来た 合同ハイキング 今風の合コンではない 20人も集めるとレンタカーのマイクロバス ボスはドライバーだった

  秀才のショーイチが女子大の美人幹事といい仲になったのを俺たちは嫉妬して壊してやったが彼はめげない ヤツは男だ 卒業後真っ先にべつの美人との結婚式によばれたのには驚いた 福井から来ていたササキヨシヲは地元の有力商社に入社数年でメガネの製造元、売り先をつかんで 起業 あとで聞いたら同時期にニューヨークでボスはサックスフィフスアベニュー近くの安いホテルチェ-ンを拠点に5番街の生地コンバーター巡りをしていたころこの社長はブロードウエイちかくの高級ホテルが常宿でメガネの輸出だったとか全くあきれたやつだ 何部長だったか皆かってに名乗ってたから忘れた 女好きのタナベタカユキは安田生命 年賀状の住所毎年変わる全国の支社巡り保険のオバチャンにさぞもてたことだろう 支社長かもっと上にいったか  

イインチョのケンゴとはよくデモに一緒に出掛けた ベトナム反戦デモ 意思表示は世界市民の義務だ  大学構内で おーいデモにいくやつはこのバスに乗ってくれと誘導する民青の連中が民主青年同盟という共産党の下部組織とも思わず 全く能天気に 今思うにバス代誰が出してたんや  

機動隊に守られて大阪城近くのラブホテル街の怪しいネオンを見て流れ解散 いつもなんかむなしいこの虚無感はなんや 帰りにはいつもケンゴと屋台の2級酒で 串カツをあ~むと噛むと肉がない、上手に作るもんや 全共闘のせいで講義がない大学はお休みだ

企画部長のボスは皆をたきつけて ノンポリ、ノンセクトの学生を集めて討論集会やろとポスター張り出しにいったら全共闘の奴らに囲まれて、お前ら こんなんオレらに対する犯罪行為やでとおどされてスゴスゴと ポスター持ち帰る ケンゴとホンダのN3で帰る途中大学裏の路地で機動隊のバスが集結 さりげなく回り道して大学へ戻り全共闘の奴らに オイ機動隊が集結してるで と教えたらすっ飛んでどっかへ行きよった りきんで企画した集会参加は教授1人とゼミ協役員10名だけだった そうかノンポリ、ノンセクトは集まらないからノンセクトなのだと 人生の教訓に 

秀才のタムラは 6%の物価上昇て こんなん完全にインフレやでとふーん そうなん と聞いてたオレ達 全く能天気、未熟 だが世をすねたようなヤツ ヘルメットかぶってゲバ棒持つヤツはいなかった 当時主婦連のオバチャン達連日マスコミで物価が高いと訴えた

今から 思うに世の中かしましいが、これがマイルドなインフレだろう インフレが高進し、地価高騰 東京の土地代で米国全土が買えるなど己を見失って夜郎自大に拡大一直線に破裂まで ニューヨークのロックフェラーセンタービル買収が虎の尾を踏み米国の逆襲に インフレが爆発して気が付いたらいつの頃からか未体験ゾーンのデフレに うーん 何十年も続くとデフレというのは恐ろしい 人も社会も等身大に見ること出来ない、夢も野望も縮こまってしまうことだ発展が阻害されること インフレのかしましい世の中のほうがましだ 春夏秋冬心地良い期間は短い 暑いか寒いかのほうが長い 今ジャニーズ問題だが ひとつボスの体験談を

大学2年のこと 第2外国語のフランス語の授業後教師に自宅招待され、なんだろと思いつつ行った所が独身のアパート 泊まってゆけ、飯食ってゆけ、風呂入ってゆけ、しょうがなしに、あろうことか狭い風呂に一緒に入ってくる あとでクラスのヤツに聞いたことに オレもオレも呼ばれたで と大学教員がホモ相手をあさっていたのだった 当時まだゲイといつた尊敬語はなかった これに辟易して断わりの手紙を書き以後授業に出なかった 結果単位を一つ落とすことに c’est la vie  セ、ラ、ビー これが人生、これが世の中さ 当時大学1、2年生は18、19歳 未成年だが世間は大人扱い 喫煙飲酒だれも咎めなかった 自己責任

ジャニーズ被害者のかわいそうな人達よ 君たちは未成年でも大人扱いもされただろう 少なくとも小児性愛の被害者ではなかろう

統一教会の信者二世、親の信仰のせいで悲惨な人生だったというが、まだ生きているやないか 布施とは何か よう学んで考えてみ

どちらも政治マターにすることではない ボスの大学4年間は総合レジャーランド 北アルプス縦走から下宿へ帰りついた時有り金2円 実家の仕送り月々17000円 3年目から20000円にそれで十分 充実したモラトリアム期間だった 単位ギリギリ確保、留年したくもできず スタンバイミーの少年たちの涙 胸がうずく 映画の最初と最後の回想シーンが好きだ 音楽とも

“あの時のような友達は出来ないだろう もう二度と”

ひとつだけ大きな心残りが ある夜イインチョのオオタケンゴが何十年ぶりに突然の来訪 夜の9時前か 会社事務所で一人 民事再生計画がほぼ行き詰まり とうとう倒産か 諦めとあがきか 悶々と呻吟のさ中 最悪のタイミングに 聞けば池田市役所定年後職務で蓄えた福祉関係知識で起業したが、金がなくなるばかりで2年で止めた 仲間の半数のように社長をやってみたかったのだろう 藤沢周平が好きで記念館を訪ねに一人車中泊でぶらぶら行く途中だと

 許せ ケンゴよ 酒を酌み交わしたかったろうに 心と金のゆとりもなかった特別の夜になんで突然くるんだよ 彼の家はキリシタンでみな優しい人達だった どうか許してくれたまえ