名前は大事だ 責任と人格を表す ホットニュース冤罪事件で拘留中に癌が進行して裁判中に亡くなったと 保釈申請8回も棄却され治療が遅れて死亡 申請8回却下にかかわった裁判官30数名だとか名前をさらせよ なぜしない さくこんの名前を軽んじる風潮が根源にある 夫婦別姓問題、政治家の帰化歴 戸籍謄本隠し、裁判官の名を大きく報じないメディア そいつらは日本人の心を持ってない中国、朝鮮人とその手先だ 恥知らずだ 自民党よ野党よ よく聞け
昔、侍は 命は惜しむな 名を惜しめ 命を張って恥をそそいだ
なんの脈絡もなく思いだした昔のことを 大学終わってすぐ家業に就いた 祖父が起こした織物業だ 爺様はやり手で職人の起業ながら戦前、戦中 同業者が金属供出に織機を政府に召し上げられた時期軍需工場の指定受けて軍用の織物生産してたらしい 金沢は空襲被害もなく 戦後立ち上がりはどこより早く、ずいぶん儲けたと思う当時生産品は絹 商品分類は羽二重 爺様は考えたきっと 重め羽二重は原料費の生糸がたくさん掛かるライバルの老舗工場の資金力との競合はきつい 軽め羽二重は原料費少なくて済む これだこの分野 やってみたらすごいライバルがいた 川俣産地の軽め羽二重 価格競争かないっこない 爺様は考えた ライバルがいない価格競争か゛ない商品を 縮緬と言う商品は緯糸に強い撚りをかける、この強撚糸で縦,緯を組むシルクジョーゼットだ 工程が面倒で技術難易度も高い 原料費比率低く、付加価値高い 需要はアメリカ
人から聞いた話だが この時期横浜から船積みのシルクジョーゼットの8割を占めていたとか 絶好調だったろう 好事魔多し 売り先の輸出商社の不意の倒産からすべて逆転に 金沢の本社工場引き払い美川工場に集約再起図るも出火全焼、 成り上がりの新興企業では含み資産もなく全資産消失残ったのは昭和31年で3000万円の借金 ここから再建はかるそのエネルギーはどこからくるのか
爺様の息子7人のうち5人が家業に就いており3人が大学卒 やはり成功体験は人を縛る 夢よもう一度 だが高度経済成長期すべてが変わった 絹人絹から合繊の時代へ 東洋レーヨンは東レと名を変え機屋へ糸を売るから 下請けとして織物を織らせるように ポリエステル織物増産に東レ帝人はしのぎを削り他のメーカーも続いた北陸の機屋の99%が合繊織物の生産体制 1次2次3次の下請け生産に組み込まれていった 業界のこの様変わりのなかで長男を残して弟たちは家業を離れた この15年でポリエステルの黎明期から拡大期経て業界の川上の支配構造ほぼ出来上がり 2代目の親父は借入を負って、合繊発展の波に完全に乗り遅れた 立ち位置としてはメーカーの3次下請けの工場であった おやじは愚痴をいわない我慢づよい男だった 旧債を完済したころには設備(織機)老朽化 たまたまの設備投資ブームで建物、機械、新増設以後新たな借り入れ返済に苦しむことになった ちょうどその頃ボスが帰る22歳 賃加工というのは原料支給、織物設計表のとおり織り上げ納品、検査不良は罰金 工賃には相場があり設備の償却は難しい水準だった 家内工業の24時間操業と張り合うには技術力で差別化するしかない
予想通り賃加工では設備更新の利益は得られない、苦しい経営の中で機屋の下請けでは埒が明かないところ幸運にも取引先を大手機屋から産元商社に切り替え出来て3次下請けから2次下請けとなり支給原糸で商品開発をして商社営業マンとともに東レへ持ち込んで発注を受ける形にまでなった 1社単独受注では生産スペース全部をおさえられて自由に動かせるスペースは無く複数社との取引など,考えられない 設備拡大の資金なぞ及ぶべくもない そこで考えた外注工場を持って受注量をふって自社の生産量の自由度を増す 能登の小規模家内工場を1軒づつ回って外注工場に組み入れた
と そのころ親父56歳、脳卒中で倒れた 28歳でいきなり社長になった自分にはわけのわからないプレッシャーの中で奮闘するしかなかった 時勢が味方した 中堅繊維商社の社員が独立して会社を興すのが流行ってブローカーが乱立、売り先は持ってるが仕入れ先は少ない ユニークな生地開発する機屋のうわさを聞いて訪問客が続いた さらにある日突然に主取引先の金沢の産元商社 経理部長の不正で合繊メーカーも見放し倒産に これが変に幸いした 三井、三菱、グンゼ、トーメン、日商岩井etcそうそうたる大手商社繊維貿易部が発注済の輸出契約を完納させるために緊急避難で機屋に直契約に切り替えた 平時にはあり得ないことだった 更に東レの部長の指示で仲間3人で新会社をつくり東レの仕入れ口座ができた
賃加工の悲哀と低収益から脱却を願い、いつか自分の商品を自分で値付け販売できるよう夢みてそうなるように どうすればいいかその方法もわからなかったのが突然にその立場になった と同時に賃加工受注もうできない 原料仕入れ先は東レがある 織物販売先は大手商社すでにあり 価値ある商品をいかに継続生産できるかが勝負となる
そのころポリエステル新原糸のオーガンジーがブームとなり 試職開発品 作ったもの全て売れた時期が2年ほど これが自信となりどんどん作った 営業せずとも全国から商材を探しに新規の客が訪れた また一宮の全日本テキスタイルコンベンションで準グランプリ賞取ったり その時の名誉審査員長があのパコ ラバンヌだった
かって日本の輸出を支えた繊維産業の凋落を何とかしようと通産省はさまざま手をうった が、ほとんどが低利融資で業界の大手ボス企業の設備近代化増設に 後の経産省繊維課長に侍が現れた 以前の失敗から今度は低利融資ではなく返済不要の補助金だ 但し機械代金には使ってはいけない 下請けを脱して自販目指しなさい,物ではなくアイデアに金を出す、返さなくてよい 名付けて自立事業支援政策 全国から数百の申請書を今度は政治家の介入を許さず、秘密で全部一人で審査した 役人に豪傑もいたもんだ 3日ほど半徹夜で書き上げた申請書 ヒアリングもなく一発採択嬉しかった。発表前日に地元代議士から電報が来た なんだこりゃ マメなことだ 全国で90社だったか石川県で2社採択
地元、業界だけで有名企業となったがその間、世の中はすでにおお変りで繊維輸出は永年の円高を超えられず壊滅、大手商社の繊維貿易部はすべて廃止 国内販売に専念ここでもおお変わりしたことは
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